リスク対応の世間一般の話題としては、食品の異物混入事件でしょうか。
本来なら、その場で文句言ってお金を返してあげて終わりだった案件も、メディアでどんどん表沙汰にされることで、人々の印象の中に不衛生のレッテルが貼られてしまいました。
ウチの子も急にマック行きたくない、言い出しています。「今なら人いないよ」とか言ってもダメ。もう感覚的に拒否してます。子供だから仕方ないと思いつつ、ということは日本人全体がそういう子供っぽい反応をしているようにも感じます。
カップ焼きそばのゴキブリも衝撃的でしたが、あれはTwitterのような拡散の仕組みがあればこその衝撃であって、実は以前よりその程度のことはあったのかもしれません。
上記のような事案に対して食品提供側はお客サマの理解を得るために、工場を止めたり、過剰と思える謝罪をしたり、その社会的制裁ぶりには思わず同情してしまうほどです。
このようなニュースは、多くの人に業者に対して「反省しろ」と心の中で喝采させるのと同時に、誰もがいつ自分が吊し上げられるかわからないという不安を与えます。
次は自分があの場所に立っているかもしれない、という恐怖です。
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かくして私たちはどこまでもリスク回避、責任回避の行動を取りたがるようになります。
私たちは人間ですから間違いはどうしても犯します。人によっては間違う多さも違うのでしょうが、誰もが完璧に仕事をこなせるわけではありません。
リスク回避の意識が強くなれば、間違いを処理する仕事がプロセス化され、間違いを放置しておくことが難しくなります。結果的に、このような組織文化は他人の失敗を糾弾する行動が賞賛されるようになっていくでしょう。
そして、組織内にある数多の間違いをお互いに指摘し合う文化が醸成されていきます。
このような文化はある程度正しいことです。
組織として良質なアウトプットを出すために、間違いはなるべく少ない方が良いのですから、相互で確認し、チェックすることで品質を高めていくことは、組織の価値を高めるために当然のことでもあります。
しかし、組織の価値を高める以上に、リスク対応の業務が増えてくるとすればどうでしょうか。それが過剰になっていくと、それは必ずしも良い方向には向かわなくなると思います。端的に言えば、余計な業務が増え、利益率が悪くなるからです。
営利企業ならまだしも、利益という概念が基本的にない公務員の場合、こういう事態はそうとうひどい状態になっているのではないかと推察します。
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このような事態に対して、冷静に的確に業務量を分配するには、私には確率、統計的な手法は避けて通れないのではないかと思うのですが、ほとんどの場合、情緒的な反応のみで、誰か一人でも「許されない」と言えば、それが正義となってしまうのです。
そのような状況で、確率的な対応の話をしても「その一人にとっては100%だ」みたいな反応をされることがほとんどであり、結果的に確率論を否定されます。
それが業務効率向上の否定であることにまるで気が付いていないようです。
もちろん、自分がこれまで書いてきた内容、すなわち、確率、統計、効率、利益・・・こういう言葉は嫌われやすいですね。
分かる人には分かっているし、なるべく上記の言葉を使わずにうまく人を説得できる素晴らしい経営者もいるのでしょうが、それでもビジネスを続けていくためにこういう感覚が共有できなければ、継続的な事業運営なんて出来ないと思います。
昨今の有名日本企業が苦境に立っているのも、こういう考えが出来ない経営者が多いからではないかと私には思えてしまいます。
ちょっと話題が逸れましたが、リスクに対して発生確率を統計的にとりつつ、こういった案件がSNSで拡散されやすい昨今、むしろSNS対応、マスコミ対応みたいなものを別途研究すべきなのかもしれません。
こんなところで技術部長が引っ張り出されて正直なことを言おうものなら、火に油を注ぎかねません。外部に対する公表で必要なことは、内容の正確さを失わないまま、いかに大衆の感情をうまくコントロールできる表現をするか、ということが問われているのだと思います。