人間の細胞の中には、遺伝情報が格納された46本の染色体があり、そのうちの半分は父親から、そして残りの半分は母親から譲り受けたものです。
よくチープなドラマで、出生の秘密とか言って実は主人公の両親は実の親ではなかった、というようなストーリーがありますが、私にはそんな状況はあり得ないような気がします。なぜなら、両親の身体的特徴やら性向などを、自分自身が受け継いでいると身をもって感じているし、だからこそ自分が今の両親の子供であることはあまりにも明白だからです。
若い頃にきびの出た場所だとか、すぐお腹をこわすとか、腰痛持ちとか、遠視気味だとか、そういった身体的特徴はしっかり遺伝しているし、両親の性向だって少しずつ自分に受け継がれていると実感しています。
例えば、母は華道の先生をしたり短歌集を自費出版するなど、芸術的活動が好きで、自分の創作意欲などは母親から受け継いだように感じます。一方、父からは、理系的な性向を受け継いでいます。父は理系でも技術者でもない商売人でしたが、それでも私には父が正真正銘の理系的人間であったと感じています。しかし残念ながら、自分には父の強力な記憶力はあまり遺伝しなかったようですが・・・
生命のサイクルが回転することによって、そういった遺伝情報は子々孫々に伝えられていきます。「利己的な遺伝子」では、遺伝子は生命個体を乗り継ぎながら次世代に残ろうとする利己的な存在であり、生命個体はそのための単なる生存機械(サバイバルマシーン)に過ぎないと述べています。そして次世代に情報を伝え役割を終えた生命個体はただ朽ちていくのみなのです。
それはそれで非常に深遠なる生命の神秘ではあるのだけど、それでも、それぞれの生命個体は、朽ちていく命に対して悲しみを感じ、悼む気持ちを持たざるを得ません。生命のサイクルは、綿々と続くそういった生命個体の犠牲の上に成り立っていることを、今は深く感じているのです。
2006年10月24日火曜日
2006年10月17日火曜日
大人こそファンタジー
最近、何となく思ったこと・・・
その昔、音楽文化っていうのは若者のためにあるものだと思っていました。実際、CDを買うのはほとんど若者だし、音楽の流行り廃りというのも若者が先導しているように感じていた。
そして、なぜか大人の音楽というと演歌、と相場が決まっています。少なくとも私が若者だった頃は、そんな感じだった。確かに、今でも演歌はオジ様、オバ様たちが好んで歌っていますし・・・
だから、自分が子供の頃、大人になったらみんな演歌を聴くものだと思っていました。なんで、あんな曲がいいんだろう、でもきっと大人になればわかるのかなあ、なんて感じていたのです。
ジャンルのことを言いたいわけではなくて・・・恐らく、今の私たちの世代は年を取っても演歌は聴かないかもしれません。でも、きっとユーミンや陽水やサザンとかが、演歌にとって変わる機能を持つようになるのだと思います。
歌の普遍的な内容はやはり恋愛。
若者が歌いたい歌は、現在進行形のリアルな愛の歌。等身大の自分たちが描写され、ありきたりでもささやかな幸せを願うといった内容が多いのではないでしょうか。自分に身近であるほど共感を得やすいのです。
その一方、大人が歌いたい歌というと、恋愛の現役で無くなった今、恋愛とはもはやファンタジーであり、妄想の世界。ありもしない夢物語を思い描きたいのです。そして、それこそ、大人の歌と若者の歌の違いではないかと、そんなことを感じたのです。
そう考えると、演歌のファンタジー性の高さに気付かされるのです。ファンタジーにやはり大切なのは、舞台設定と、小物。酒場とか、港とか、峠とか、岸壁とか・・・。もちろん地名も多くなります。不思議なことに、具体的な地名が付くほど、その歌詞はファンタジー性を帯びてきます。それは、かすかな想い出や、妄想が働く触媒の役目を果たすからなのでしょう。
そう考えれば、大人が演歌を聞かなければいけないという法はありません。つまり、大人は音楽にファンタジーを求めているのではないかと、思うのです。そして、そう考えれば大人の聞く音楽のトレンドというのが掴めるような気がするのです。
その昔、音楽文化っていうのは若者のためにあるものだと思っていました。実際、CDを買うのはほとんど若者だし、音楽の流行り廃りというのも若者が先導しているように感じていた。
そして、なぜか大人の音楽というと演歌、と相場が決まっています。少なくとも私が若者だった頃は、そんな感じだった。確かに、今でも演歌はオジ様、オバ様たちが好んで歌っていますし・・・
だから、自分が子供の頃、大人になったらみんな演歌を聴くものだと思っていました。なんで、あんな曲がいいんだろう、でもきっと大人になればわかるのかなあ、なんて感じていたのです。
ジャンルのことを言いたいわけではなくて・・・恐らく、今の私たちの世代は年を取っても演歌は聴かないかもしれません。でも、きっとユーミンや陽水やサザンとかが、演歌にとって変わる機能を持つようになるのだと思います。
歌の普遍的な内容はやはり恋愛。
若者が歌いたい歌は、現在進行形のリアルな愛の歌。等身大の自分たちが描写され、ありきたりでもささやかな幸せを願うといった内容が多いのではないでしょうか。自分に身近であるほど共感を得やすいのです。
その一方、大人が歌いたい歌というと、恋愛の現役で無くなった今、恋愛とはもはやファンタジーであり、妄想の世界。ありもしない夢物語を思い描きたいのです。そして、それこそ、大人の歌と若者の歌の違いではないかと、そんなことを感じたのです。
そう考えると、演歌のファンタジー性の高さに気付かされるのです。ファンタジーにやはり大切なのは、舞台設定と、小物。酒場とか、港とか、峠とか、岸壁とか・・・。もちろん地名も多くなります。不思議なことに、具体的な地名が付くほど、その歌詞はファンタジー性を帯びてきます。それは、かすかな想い出や、妄想が働く触媒の役目を果たすからなのでしょう。
そう考えれば、大人が演歌を聞かなければいけないという法はありません。つまり、大人は音楽にファンタジーを求めているのではないかと、思うのです。そして、そう考えれば大人の聞く音楽のトレンドというのが掴めるような気がするのです。
ラベル:
音楽
2006年10月12日木曜日
シェイクスピアを読む
芸術に携わる者ならシェイクスピアくらいは読んでおかなきゃ、と何度思って、その度に挫折したことか・・・。なぜか、文庫本は何冊も持っているのだけど、実は一つとして読破したことがなかったのでした。恐らくその理由は、戯曲という形態が今ひとつ自分にしっくりこないのと、古典的で過剰な比喩の数々に意識が朦朧としてしまうからなんでしょう。
今、ヴォア・ヴェールでマンチュヤルヴィ作曲「四つのシェイクスピアの歌」を練習中で、先日も合唱祭でその中から2曲を演奏したわけですが、せっかくこういう曲を練習しているのだし、もう一回シェイクスピアを読んでみようと思いたったのです。
もちろん読むのは、今練習している曲の詩が入っているヤツ。まずは、「マクベス」から。
ああ、今まで何でマクベスから読み始めなかったんだろう、と思いましたよ。だって短いんだもの。3~4時間くらいで読めました。もちろん長編になれば、もっと複雑になり、内容も重厚になるのだろうけど、シェイクスピアの雰囲気をまず知るには、短いものから入るのがやはり良いような気がします。
ちなみに、「四つのシェイクスピアの歌」の三曲目「Double,Double Toil and Trouble」がマクベスから引用された詩。物語では、三人の魔女が気味悪い魔法のスープを歌いながら作っている、という設定。この魔女たちがマクベスに予言を語るのですが、それが物語りを動かすきっかけになったり、オチの伏線になったりします。
今、ヴォア・ヴェールでマンチュヤルヴィ作曲「四つのシェイクスピアの歌」を練習中で、先日も合唱祭でその中から2曲を演奏したわけですが、せっかくこういう曲を練習しているのだし、もう一回シェイクスピアを読んでみようと思いたったのです。
もちろん読むのは、今練習している曲の詩が入っているヤツ。まずは、「マクベス」から。
ああ、今まで何でマクベスから読み始めなかったんだろう、と思いましたよ。だって短いんだもの。3~4時間くらいで読めました。もちろん長編になれば、もっと複雑になり、内容も重厚になるのだろうけど、シェイクスピアの雰囲気をまず知るには、短いものから入るのがやはり良いような気がします。
ちなみに、「四つのシェイクスピアの歌」の三曲目「Double,Double Toil and Trouble」がマクベスから引用された詩。物語では、三人の魔女が気味悪い魔法のスープを歌いながら作っている、という設定。この魔女たちがマクベスに予言を語るのですが、それが物語りを動かすきっかけになったり、オチの伏線になったりします。
2006年10月8日日曜日
ハーモニー秋号
春号の楽譜掲載に次いで、今回の秋号にも私の記事が載っています。何といっても、一等賞なんで誇らしい気分になりますね。それに、審査員の先生がどんな評価をしてくれるのか、その記事も大変楽しみにしていました。
そして、今年の審査員のコメントは作曲家の西村朗氏。
いやー大変、嬉しいコメント。曲の本質をホントにうまく短いセンテンスでまとめてくれていて、さすがだなあと思いました。あの中の「意味がないような、あるような・・・」というくだりでは、曲の微妙な仕掛けをちゃんと分かってくれたことに、心の中で思わず拍手喝采。それにしても、ここまで持ち上げてくれると、こんなに誉められてもいいものかと、ちょっと不安になります。
この記事で、拙作に興味を持ってくれる人が増えることを期待したいと思います。
さて、別の記事でちょっと気になったところ。
「科学の目が見た合唱の発声」という記事で、結論となっている合唱の声と、オペラの声は違う、というのはまあ納得するにしても、中盤のコンピュータ分析については、ちょっと???という感じ。倍音って何の音に対する倍音をどうやって計ったんでしょう。不協和倍音って言葉も初めて聞いたし・・・。科学と言いながら、かなりアヤしい雰囲気です。
そして、今年の審査員のコメントは作曲家の西村朗氏。
いやー大変、嬉しいコメント。曲の本質をホントにうまく短いセンテンスでまとめてくれていて、さすがだなあと思いました。あの中の「意味がないような、あるような・・・」というくだりでは、曲の微妙な仕掛けをちゃんと分かってくれたことに、心の中で思わず拍手喝采。それにしても、ここまで持ち上げてくれると、こんなに誉められてもいいものかと、ちょっと不安になります。
この記事で、拙作に興味を持ってくれる人が増えることを期待したいと思います。
さて、別の記事でちょっと気になったところ。
「科学の目が見た合唱の発声」という記事で、結論となっている合唱の声と、オペラの声は違う、というのはまあ納得するにしても、中盤のコンピュータ分析については、ちょっと???という感じ。倍音って何の音に対する倍音をどうやって計ったんでしょう。不協和倍音って言葉も初めて聞いたし・・・。科学と言いながら、かなりアヤしい雰囲気です。
ラベル:
合唱
2006年10月5日木曜日
MIDIマニア
基本的に、MIDIシーケンサとしてCubase SX3を使っているのですが、これはいわゆる音楽制作ソフトというヤツで、正直言って MIDIシーケンサとしてはかなり使いづらいと思います。そもそも、昔ながらのDTMとは、おおよそ発想が違っているわけです。
私の場合、MIDIで打ち込んで、ぎちぎちに作品を作るというようなことはしないのですが、それでも自作品をホームページで聴ける程度のMIDIデータは自分で作りたいもの。とりあえず、人に自分の曲を聴いてもらうには、MIDIは大変重宝します。
そんなわけで、もうちょっといいMIDIシーケンサはないものかと思っていたのです。ヤマハのSOL2でも悪くないのだけど(使い方は良く知っている)、いまさら3万円も出して買うほどのものでもないし・・・などと考えていたのですが、ふと思い立って、フリーのMIDIシーケンサを探してみました。
そうしたら、あるわあるわ。結構、立派なものもあって、正直驚きました。フリーウェアでこれだけのものが流通していれば、そりゃウン万円もするソフトが売れるわけはないですね。
確かに、市販のソフトに比べると、??といった動きをすることもあるし、バグも結構多そうだけど、タダでコレだけ出来れば十分。複数のソフトをダウンロードして比較してみたのですが、しばらくは、これを使ってみることにしています。
私の場合、MIDIで打ち込んで、ぎちぎちに作品を作るというようなことはしないのですが、それでも自作品をホームページで聴ける程度のMIDIデータは自分で作りたいもの。とりあえず、人に自分の曲を聴いてもらうには、MIDIは大変重宝します。
そんなわけで、もうちょっといいMIDIシーケンサはないものかと思っていたのです。ヤマハのSOL2でも悪くないのだけど(使い方は良く知っている)、いまさら3万円も出して買うほどのものでもないし・・・などと考えていたのですが、ふと思い立って、フリーのMIDIシーケンサを探してみました。
そうしたら、あるわあるわ。結構、立派なものもあって、正直驚きました。フリーウェアでこれだけのものが流通していれば、そりゃウン万円もするソフトが売れるわけはないですね。
確かに、市販のソフトに比べると、??といった動きをすることもあるし、バグも結構多そうだけど、タダでコレだけ出来れば十分。複数のソフトをダウンロードして比較してみたのですが、しばらくは、これを使ってみることにしています。
2006年10月2日月曜日
イルマーレ
オリジナル版を見た手前、やはり今公開中の「イルマーレ」を見ないわけにはいきません。
さて、感想の第一声としては・・・、悪くは無いけど、オリジナルの韓国版のほうが面白いかなあ、という感じ。
基本的に、ファンタジックなイメージだったオリジナルから、ハリウッド版はリアルな現実感を重視し、ストーリーもなるべく分かり易くさせようと努力している感があります。
あと、やはりお国柄が出るのでしょうか。やはりアメリカ映画っていうのは、すごくきちっと論理的整合が取れていないと製作側が満足しない、というような側面があるように感じます。特に、この映画、設定が大変面白いのだけど、タイムマシン的ネタというのは簡単にパラドックスが作れてしまうので、その穴のふさぎ具合に製作側の違いが現れます。例えば、駅で忘れた小物は、韓国版ではヘッドフォンステレオなのだけど、ハリウッド版では、ケイトが愛読している本。この本の内容を、映画のストーリーとオーバーラップさせたり、本自体が思わぬところで現れたり、いかにもハリウッド的な伏線のはり方。だけど、一度韓国版を見ていると、そういった小細工が逆に小賢しく感じられてしまいます。
もちろん、オリジナルのストーリーの面白さがあったからこそ、今回のリメイクになったのだけど、”待つ恋愛”みたいなテーマに変わってしまったのが、ファンタジー度を下げてしまった気がします。
なんか、「ソラリス」のハリウッド版リメイクを見たときの印象とすごく似ていますね・・・
さて、感想の第一声としては・・・、悪くは無いけど、オリジナルの韓国版のほうが面白いかなあ、という感じ。
基本的に、ファンタジックなイメージだったオリジナルから、ハリウッド版はリアルな現実感を重視し、ストーリーもなるべく分かり易くさせようと努力している感があります。
あと、やはりお国柄が出るのでしょうか。やはりアメリカ映画っていうのは、すごくきちっと論理的整合が取れていないと製作側が満足しない、というような側面があるように感じます。特に、この映画、設定が大変面白いのだけど、タイムマシン的ネタというのは簡単にパラドックスが作れてしまうので、その穴のふさぎ具合に製作側の違いが現れます。例えば、駅で忘れた小物は、韓国版ではヘッドフォンステレオなのだけど、ハリウッド版では、ケイトが愛読している本。この本の内容を、映画のストーリーとオーバーラップさせたり、本自体が思わぬところで現れたり、いかにもハリウッド的な伏線のはり方。だけど、一度韓国版を見ていると、そういった小細工が逆に小賢しく感じられてしまいます。
もちろん、オリジナルのストーリーの面白さがあったからこそ、今回のリメイクになったのだけど、”待つ恋愛”みたいなテーマに変わってしまったのが、ファンタジー度を下げてしまった気がします。
なんか、「ソラリス」のハリウッド版リメイクを見たときの印象とすごく似ていますね・・・
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